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スティーブン(インタビュアー)‥‥ 今日、多くの人びとが「ビー・ヒア・ナウ」という言葉を知るようになったと思いますが、あなたは間違いなく、このことを私たちの記憶にはっきりと残すように手助けしたひとりです。この言葉はどのような意味をもつのでしょうか? なぜこれは私たちにとって重要なメッセージなのでしょうか?
ラム・ダス ‥‥「ビー・ヒア・ナウ」というのは、私の本のタイトルでもあるのですが、それはスピリチュアルな方法のことです。意識というものは、まるでバクラバ[訳注:トルコやギリシャのお菓子で、薄い小麦粉の生地のあいだにナッツや香辛料などをはさんで層状にしたもの]のように重層的になっています。いま、この瞬間にたたずむと、つまり意識がこの一瞬だけをつかみ、そこに入っていくと、あなたは、自分自身の存在のなかの、あなたが神であるような場所へと入っていくことになります。神はたった一人というわけではありません。私たちみんなが神なんですから……。ヒンドゥー教では、これをアートマンと呼びます。一瞬のなかにたたずむと、あなたはアートマンのなかに入っていきます。そして人生は、鳥が鳴く、車が動いていくなどといった様々な瞬間に満ちていることに気づくのです。
スティーブン‥‥なるほど。あなたの歩んできた道には、旅という一つの側面
がありました。あなたは、旅の重要性というものを強調してきたと思います。現代の生活で私たちは、物質的成功や安定以外のことに時間をさくというのは、健康や幸せを脅かすように感じています。旅の重要性について、またわれわれにとって、自分が知っていて、思いこんでいることから離れていくことの意味とは何でしょうか?
ラム・ダス‥‥ われわれは日常生活のなかの決まりきった事柄にはまっていて、そこにはメロドラマがあります。こういったメロドラマは意識を非常に強く捕らえています。決まった事柄をしているときは、あなたの意識はその事柄の回りでダンスをしていて、それを考えることが時間と空間のなかにあるわけです。意識が時間と空間の外にでると、あなたは時空を超えて存在することができます。しかしながら、それでも、あなたのメロドラマは時間と空間のなかで続いています。生まれた瞬間から、私たちは、周囲の人から身体やパーソナリティとして扱われます。誰かがあなたを魂として接したとしたら、それは素晴らしいことでしょう。だって、あなたも私も魂なんですから。そして、私たちはソウル・フレンド(魂の友人)になれるわけです。
スティーブン ‥‥あなたは自分のマインド(心)を変化させてきました。変性意識のなかにはいり、ことによったらあなたが恐怖を感じるかもしれないような場所をたずねてきました。私たちにとって、通
常の意識が認識しているものから、たとえ一瞬であっても、抜けだす利点というのは何でしょうか?
ラム・ダス‥‥ 日常的なルーティーンの意識から別のレベルの意識へと脱出するメリットは、相対性を獲得することです。すなわち、自分の人生を目撃するような認識のスタンスに立つのです。あなたは人生を目撃しはじめます。目撃者は旅をしません。ただ目撃するだけです。あなたは高みに登って目撃します。そして、同時に2つのレベルで生きれるようになると、あなたは自分の箱から、パーソナリティの箱から、肉体的な存在から、自由になるチャンスを獲得することになります。でも、わずかな例外をのぞいて、誰もがみな自分の箱のなかにいて、まるで臆病者のように外へ出ようとはしません。あなたはどちらですか?
スティーブン ‥‥この世で、自分の箱の外に出るのを怖がらせているものとは、いったい何でしょうか? 私たちは、自分の箱のなかにいることが有利であるようなパラダイムを作りあげてしまったのでしょうか?
ラム・ダス‥‥ 神秘主義に関して、何が怖ろしいのかということを質問していらっしゃるんですか?
スティーブン ‥‥そうとも言えます。しかし、もっと重要なのは、私たちがいま生きている世界で、神秘主義を怖ろしい経験のようにさせているものとはいったい何かということなんです。
ラム・ダス‥‥ そうですね、社会の決められたパターンのようなものだと思います。そのようなパターンのなかからジャンプするのは大変なんです。でも、あなたのご質問にお答えしなくてはいけませんね。なぜ私たちが怖れてしまうかというと、精神医学が変性意識状態の特性を、狂気として述べているからです。でも、私は狂ってはいません。
私は、瞑想やドラッグ、グルといった変性意識の手段を用いてきました。面
白いのは、われわれの社会が、社会のなかからクリエイティブな霊の光を排除するときです。彼らはこう言うんです。「われわれは、われわれのパターンからはずれることはできない……」
スティーブン‥‥ いま登場してきている若い世代というのは、あなたがたという非常に有名な世代の経験について、本で読んだり、映画で見たり、音楽を聴いたりしてきています。彼らは、必ずしも手段は持っていませんし、それに時間をさいてみたいとか、やってみたいというわけではないのですが、こういった世代の人に、あなたがあの時代から学んだことで何を伝えたいですか? 間違いや成功など、また、もし私たちがもう一度やってみるとしたら、そこにはどんな違いがあるのでしょうか?
ラム・ダス ‥‥非常にクリエイティブな時代として、(アメリカの)60年代や70年代を学ぶことができると思います。人びとがどんなに慈愛にあふれていたか、愛に満ちていたか、賢明だったかを学ぶことができます。例えば、ベトナム戦争に関して起きたことなどがそうです。私たちがやったことは、モラル(倫理)だったんです。ロックはそのメッセージを与えたと思います。
今日、この時代において、若い人たちが何をすべきかとあなたは質問されました。彼らは、自分自身のエクスタシーを探し求めるべきです。エクスタシーといっても、ドラッグのことではありません。自分の人生においてのエクスタシーです。それには、宗教を用いてみたらどうかと、私は思うのですが。
宗教はひとつの道となりうるものです。祈りもひとつの道となりえます。数珠もそうです。
人を魂として見ることも道となりえます。あなたの関係性がすばらしい道なのです。どんな関係においてもそうです。両親や大切な他の存在、子どもたち、政治家など。本当に、彼らを魂として見るようにすることです。私たちは、魂なのですから。
スティーブン ‥‥私たちは人類を、成長し成熟していくものとして見ることができるのでしょうか? というのも、これから訪れる時代において、われわれは皆、何かが起こる、おそらくはパラダイム・シフトのようなものが起こるのではないか、と願っていると思いますので。
ラム・ダス‥‥ そうですね。私は「進化」のビジョンをもっています。私たちは、コミュニケーションというものを通
して、これまで長い道のりを歩いてきました。ここでのコミュニケーションとは、社会全体が参加するようなコミュニケーションです。わずかな人びとではなく、すべての人びとです。私たちがこのように考えを伝達しあうと、テレビや映画、ラジオ、新聞、雑誌、本といったコミュニケーションの回路は、人びとのあいだの理解を深め、非常に幅広い受容性を作りだします。そして、このような「進化」の段階の後には、別
の段階がやってきます。私たちのもつ気づきが相互に結びつくということが起こってくるのです。そのためのハード・ドライブは私たちの脳のなかにあります。したがって「進化」の道における次の段階とは、すべての人びとのなかにおける、このようなコミュニケーションです。それは、とても素晴らしいものになることでしょう。
スティーブン‥‥なるほど。 リアリティについてなんですが、私たちが自分自身のリアリティをつくりだしているという考え方が語られ、これは科学的にも確かな証拠があります。しかしながら、スピリチュアルな視点から、私たちにリアリティをつくりだす力があるという考えを、どのように説明しますか? むしろ私たち自身は、リアリティを押しつけられているように思うのですが。
ラム・ダス ‥‥私たちのマインド(心)が私たちのリアリティ(現実)をつくっています。例えば、2人のひとがあるショーを見に行き、片方が素晴らしいと思い、もうひとりは気に入らなかったりします。彼らの心はそれぞれの鋳型です。
人生におけるクリエイティビティに関していえば、われわれには、様々な「私」があると思います。エゴとしての私、魂としての私、そして東洋人が感じている「第三の私」です。クエーカー教徒ならば、個人のなかにある神について、静かな声で語ることでしょう。私たちがすべきことは、意識のなかでその「私」と同一化することなのです。
スティーブン ‥‥意識のなかでその「私」と同一化することが、この地上における私たちの旅のもつ、もっとも重要な側面
のひとつなのですね。
ラム・ダス ‥‥これはとても重要なことです。というのも、その他のすべての動機は、エゴ(自我)のもつ動機だからです。われわれの魂はみな、万物や一者と同一化することによって、そこに向かいます。私たちの国では、それを神との同一化といいます。この同一化は、クリエイティブな瞬間です。われわれの創造性は、そこからやってくるからです。私が何かをクリエイトしているとき、それは、神が、私を通
してクリエイトしているということになるのです。
スティーブン‥‥ なるほど。私たちの文化は、ますます傍観的になって、テレビの前で受動的になってきているように見えるのですが、このように創造性が限られてきていることは、社会として危険なことなのでしょうか?
ラム・ダス ‥‥私には人びとがそうなっているように見えません。私は70歳で、毎日、窓から外を眺めていますが、それを危険なことだとは言わないでしょう。私はテレビをつけて、「ロー&オーダー」を見ますが、これが危険だとも感じません。私はこういったものに意識を向け、私のスピリットはそれを食べています。テレビを見たり、道行く人びとを見ているとき、私はそこに多様性を見ます。神が、様々なかたちで現れているということです。私にとってそれは、果
てしない驚異です。
スティーブン‥‥ 魂にとっての食物となるようなものがそこにあるのですか? 魂は外から滋養を得ることができるのですか?
ラム・ダス‥‥ 私たちが肉体をもって生まれてきたことが、魂にとっての食物なのです。あなたが毎日やっているまさにそのことが食物なのです。バガヴァッド・ギーターのなかで、神であるクリシュナは、「おまえがすることをしなさい。しかしそれを私の足もとに花として捧げなさい」と言います。それは、神に捧げられる花です。あなたがお店に行くとすると、その店に行くことがスピリチュアルな行為になります。ただピーナッツ・バターを手に入れるだけではありません。それは、神に近づく行為なのです。そして、もし人生をそのように考えるならば、例えば、私は自分に起きた脳卒中の発作が、私を神へと近づけてくれたと思っています。脳卒中にあった人びとが犠牲者にされている様子を見かけますが、私は自分が犠牲になったとは感じていません。
スティーブン ‥‥あなたはつねに人生を光輝かせてきた存在として、ある意味で、死を超越しているという感覚があったにちがいないと思うのですが、脳卒中の発作によって自分の死を実感させられたということはありませんか?
ラム・ダス ‥‥あります。まわりの人はみな、私が脳卒中で死ぬと思っていましたが、そうはならなかった。発作は、他のものよりもはるかに深い出来事で、私はそれと日々かかわっています。その深みゆえに、私は発作を「きびしい恩寵」と名づけました。この出来事が、私のなかにすっかりはいりこんでしまったからです。私の注意は完全に発作に向けられることになりました。
スティーブン ‥‥私が聞きたかったのはまさしくそのことです。ある意味で、私たちが生きている世界は、現在、「きびしい恩寵」をいくらか必要としているとはいえないでしょうか。
ラム・ダス ‥‥そうですね。私は、ホスピスなどで、みなさんに死の床に来て座ってもらうための数多くのプロジェクトに関わっていますが、私たちは、「人間は死ぬ
」ということを認識することによって、人生を組み立てていくことができます。カスタネダのグルは、死をあなたの左肩に置いておくようにと言いました。でも、私たちはそうしてはいません。テレビで死が描かれることはありますが、それは何の意味もありません。
スティーブン ‥‥そのような領域に関して、文化は死を通過していくことができますか?
ラム・ダス ‥‥「文化は死を通過していくことができるか」という問いにおける死とは、観念的な意味での死です。文化が操作し、つくりあげている観念的な死です。アフリカではエイズ問題がありますし、ロシアは解体しつつあります。そのようなところでは死がいたるところにあります。いろいろな文化があって、そこでは、文化は死と直面
しています。文化のなかには死が存在しているんです。
スティーブン‥‥ そして、おそらくは再生も……。
ラム・ダス‥‥ ある文化においては、かなりの数の市民が、その文化のもつ考え方を支持しなくなれば、その文化にとっては確かにそうなります。私たちが市民として、「第三の私」を通
してするべきことは、真実について、何が正しいかについて、直感的な感覚をもつことです。そして政府が何かを行うときに、そこにあまりに大きなギャップがあれば、私たちは投票をします。投票というのは、私たちがもっているもっとも強力な手段だと、フロリダのことも含めて、私はいまでもそう思っています。
スティーブン‥‥ ひとつ質問をさせてください。「覚醒した存在」、「覚醒した存在になる」という言葉に関してですが、この2つの言葉は何を意味しているのでしょうか? 私たちは覚醒した存在になりたいと思うべきなのでしょうか?
ラム・ダス ‥‥そう思うべきです。私たちのなかには、エゴ(自我)と魂と「第三の私」があります。「第三の私」とは、私たちの内にいる神のことです。でも、私たちはエゴと同一化することに忙しいのです。私はこれをすることができる、あれができる、などといったように。覚醒した存在とは、「第三の私」と同一化している人のことです。そうなると、彼らの視点は神の視点になるわけで、それは悪いことじゃないでしょう。
スティーブン ‥‥自分のエゴで非常に安定している人びと、エゴのレベルで現在、権力を手にしているような人びとは、よくこう言います。それは、誇大妄想的な考えだ、おそらくはドラッグの影響を受けた、スピリチュアルな人びとによくありがちな考えだと。覚醒したと主張する神秘家やスピリチュアルな人びとに対しては、常にこのようなリアクションがあります。これまで歴史的に、社会の指導者たちによる、このようなネガティブな見方があったということに関してはどう思いますか?
ラム・ダス ‥‥つまりそれは、こういった事柄が、世俗的な力とは異なる力の形態を象徴しているからです。世俗的な力とは、政治家が愛し、お金を好む人びとが愛する力です。私のグルも力をもっていましたが、有力者たちはその力を欲しがりました。それは、奇蹟の力というものです。しかし、こういった力は別
の次元で働くものなんです。この次元を理解した人は覚者になります。そして覚者というのは、他の人びととは一風変わっています。そのために、社会が動揺することになるのです。
スティーブン ‥‥あと2つ質問があります。今日、キリストが戻ってきたならば、キリストと教会は非常におかしな関係になるだろうという人びとがいます。私が覚えている「ビー・ヒア・ナウ」でいちばん胸を打たれた箇所は、キリストとキリストの手が描かれた絵があって、「そのとき、彼の心は静かだった。彼は明日ここから去ることがわかっていて、自分に十字架を打ち付けている人に対して、あふれんばかりの慈悲をもって見ている」という部分でした。覚醒した存在にとって、慈悲のもつ役割とは何でしょうか? 現代の宗教的なヒエラルキーには、こういったものが欠けているのではないでしょうか?
ラム・ダス‥‥ 「第三の私」の次元における慈悲とは、他の存在を自分のことのように感じることができるものです。彼らが内側から何を感じているのかがわかるのです。私たちの社会のほとんどは、外から内に対して働きかけます。でも、慈悲というのは内から外へとでていくものなんです。そして……キリストは「第三の私」でした。彼は、すべての存在に慈悲を感じていました。彼はあらゆる存在とひとつだったのです。このような慈悲は、この文化においてはほとんど存在しません。多くの人びとが、自分には慈悲があるといいます。でも、それはエゴが言っていることなんです。それとは慈悲の深さがちがうのです。
スティーブン ‥‥最後の質問は、カルマとダルマについてです。前進したり、戻ったり、内にこもったりする道の全体的な概念についてです。ダルマという言葉はどういう意味なのでしょうか?
ラム・ダス ‥‥ダルマというのは、一者、すなわち神へと向かうために、私たちができること、あるいはする準備ができていることです。魂としての私たちにおけるカルマについていえば、私たちには、この瞬間、ここに来ることになった多くの原因があるということです。それはすべてカルマです。例えば私が自分の姿を見ると、私はいま車椅子に乗っていて、脳卒中の発作を起こしたわけですが、それは私のカルマです。自分のカルマをいかにして早くダルマにすることができるか。私の場合であれば、いかにして早く、病気を、神へと近づくためのステップにするか、ということなのです。
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